嗚呼青春のプロ野球 ~80年代・90年代の名選手たち~

1974年生まれの筆者が最も熱中した1980年代~90年代のプロ野球を彩った偉大なる名選手たちにスポットを当てました!

ボブ・ホーナー ~黒船襲来

 

衝撃的だった現役メジャーリーガーの来日

1987年シーズンが開幕してしばらく経った4月中旬、当時29歳で現役バリバリのメジャーリーガーだったボブ・ホーナーヤクルトスワローズへの入団が決まり、話題騒然となりました。

今でこそ日本人選手がメジャーリーグに挑戦することも珍しくなくなっていますが、当時メジャーといえばまだまだ雲の上の存在で、来日する助っ人外国人選手といえば、メジャー実績に乏しい選手か、既にピークを過ぎた選手が殆どだった時代。

アトランタ・ブレーブスの4番を務め、メジャー9年間で通算215発を放ったビッグネームは前年オフにFAするも、年俸高騰により各オーナーが示し合わせFA選手を締め出したためどことも契約出来ず、浪人寸前のところに関根潤三率いるヤクルトからのオファーがあり、急転直下日本行きが決まったのです。

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現役バリバリのメジャーリーガーの来日は異例中の異例だった

 

黒船襲来

ヤクルトに入団したホーナーの背番号は50。シーズン50発の期待を込めてのものでした。

日本でのデビュー戦は5月5日神宮での対阪神戦。その第3打席、仲田幸司から名刺代わりの来日第1号を放つと、翌6日には池田親興から1試合3本のホームランを放ち、観客の度肝を抜きました。

続く広島戦でも1試合2本のホームランを放ち、来日4試合で11打数7安打、6本塁打という驚異的な記録を残し、メディアは一斉に「黒船襲来」「赤鬼」「ホーナー旋風」と書き立て、シーズン終了までに一体何本のホームランを打つのがファンの興味の的となりました。

(あのバースをして「シーズン100本は打つね。間違いないよ」と言わしめたんだとか。)

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1987年5月6日、1試合3本塁打を放ちメジャーの実力を見せつけた

 

規定打席未達で30本塁打

一躍時の人となったホーナーはシーズン途中からの加入にも関わらず、同年のオールスターにもセ・リーグ三塁手部門のファン投票1位で選出(腰痛のため辞退)。

最終的には怪我のため規定打席には届かなかったものの、93試合で打率.327、31本塁打、73打点を記録。

規定打席不足で30本塁打以上を記録したのは88年ブライアント(近鉄)、89年デストラーデ(西武)、03年ペタジーニ(巨人)、12年バレンティン(ヤクルト)らしか居ません。

なおこの年のホーナーは野球以外にもTVCMへの出演や著書の執筆、ゲームソフトへの登場など、さまざまな面で話題を振りまいた1年となりました。

ファミコンソフト「燃えろ!プロ野球」ではホーナーの能力値が高すぎて、バントしてもホームランになるという謎仕様が話題に。)

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薬師丸ひろ子と共演したサントリー缶ビールのCM

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ナムコファミスタ87」では「ほうなあ」として登場

 

ジャー復帰〜引退

同年オフ、ヤクルトは翌年以降もホーナーと契約すべく、3年総額15億円という当時としては破格の条件を提示(この年ロッテから中日に移籍した落合博満の日本人最高年俸が1億3千万円だった時代)。

ほぼ合意に至っていたものの、最終的にはメジャーでのプレーを優先する形となり、1年総額わずか1億円でセントルイス・カージナルスと契約し、メジャー復帰が決まりました。

カージナルスでプレーした88年は60試合で打率.257、3本塁打、33打点と精彩を欠き、残念ながら同年限りで31歳の若さで現役を引退しました。

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日本では傍若無人の限りを尽くしたホーナーだったが・・・

 

まとめ

日本でプレーしたのは僅か1年。しかしファンに与えた衝撃度、瞬間最大風速は歴代助っ人外国人選手の中でも間違いなく屈指のものでした。

 

余談ですが・・・

最近ではハリセンボンの近藤春菜が「じゃねーよ」の持ちネタのひとつに

ボブ・ホーナーじゃねーよ」として使ってるようです(笑)

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言われてみれば似てる??