嗚呼青春のプロ野球 ~80年代・90年代の名選手たち~

1974年生まれの筆者が最も熱中した1980年代~90年代のプロ野球を彩った偉大なる名選手たちにスポットを当てました!

小早川毅彦 ~赤ヘルの若大将

** ポスト山本浩二

広島出身で、子供の頃から大のカープファンだった小早川毅彦は、PL学園~法政大学を経て、1983年ドラフト2位で広島東洋カープに入団。
翌84年は入団1年目ながら3番に座り、112試合で打率.280、16本塁打、59打点の成績で同年のリーグ優勝に大きく貢献。オールスターにも出場し、同年のセ・リーグ新人王にも選ばれました。
周囲からは赤ヘルの若大将」と呼ばれるようになり、当時ベテランの域に入っていた主砲・山本浩二の後継者として大いに将来を期待されました。

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1984年に新人王を獲得。将来を嘱望された

** 江川に引導を渡すサヨナラ弾

86年限りで「ミスター赤ヘル山本浩二が現役引退。
翌87年からは阿南準郎監督から「パワーがあり、チャンスに強い」と期待され、山本浩二に替わる4番に抜擢。
9月20日の対巨人戦では、当時エースだった江川卓から2打席連続ホームラン(2打席目は逆転サヨナラ2ラン)を放ち、同シーズン限りで江川を引退に追い込む形となりました。
(江川は同年13勝をあげますが、自身完璧だと思った内角ストレートを小早川に完璧に捉えられ、引退を決意したそうです。)
同年小早川は打率.286ながら24本塁打、93打点、リーグ最多勝利打点(16)をマークするなど、キャリアハイの成績を残しました。

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1987年9月20日、江川に引導を渡すサヨナラ弾を放つ

** 戦力外通告

89年には自身初にして唯一のシーズン3割(.301)をマーク。90年まで入団7年連続二桁本塁打を記録、通算100本塁打を達成するなど実績を重ねましたが、どちらかと言うと中距離ヒッタータイプで、山本浩二衣笠祥雄らに比べるとパワー不足の感は否めませんでした。
91年以降は若手の台頭もあって徐々にスタメンを外れる機会も多くなり、三村敏之監督が就任した94年以降は一塁にルイス・メディーナ、ルイス・ロペスといった外国人選手を起用する方針になったことで、完全に控えに回りました。
そして自身最少の8試合出場に終わった96年オフ、35際の小早川は遂に広島から戦力外通告を受けました。

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1996年オフ、35歳で広島を戦力外に

** 野村再生工場での復活~衝撃の開幕3連発

広島から指導者転向の打診を受けたものの、あくまで現役に拘る小早川はヤクルトに移籍。野村克也監督のID野球に触れました。
翌97年4月4日の対巨人との開幕戦で、野村監督から「お前は大学でも1年から4番、プロでは1年目に新人王。最初の年に活躍する星の下に生まれてるんだよ。だから移籍1年目も必ずやれる」と暗示をかけられ、5番スタメン抜擢。
巨人のマウンドは3年連続で開幕戦完封勝利を挙げ、前年に沢村賞に輝いた絶対的エース・斎藤雅樹
すると小早川は2回に直球をバックスクリーンへ先制ソロ、4回に1-3からのカーブを右翼席へ同点ソロ、6回にはシンカーを右翼席へ運ぶ3打席連続ホームランの大当たり。
特に2打席目は「斎藤は1-3のカウントから必ずカーブでカウントを取りに来る」という野村監督のデータに裏打ちされたものがズバリはまった結果でした。
この年小早川は116試合に出場。「野村再生工場」で見事に復活を果たし、同年のリーグ優勝に貢献しました。

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97年4月4日巨人との開幕戦、斎藤雅樹から驚異の3連続ホームランを放つ

** まとめ

小早川はヤクルトで3年間プレーし、99年限りで現役引退。
プロ通算16年で打率.273、171本塁打、626打点。
偉大なる先人たちの記録には及びませんでしたが、記録よりも記憶に残るプレイヤーとして強烈な印象を残しました。

ボブ・ホーナー ~黒船襲来

 

衝撃的だった現役メジャーリーガーの来日

1987年シーズンが開幕してしばらく経った4月中旬、当時29歳で現役バリバリのメジャーリーガーだったボブ・ホーナーヤクルトスワローズへの入団が決まり、話題騒然となりました。

今でこそ日本人選手がメジャーリーグに挑戦することも珍しくなくなっていますが、当時メジャーといえばまだまだ雲の上の存在で、来日する助っ人外国人選手といえば、メジャー実績に乏しい選手か、既にピークを過ぎた選手が殆どだった時代。

アトランタ・ブレーブスの4番を務め、メジャー9年間で通算215発を放ったビッグネームは前年オフにFAするも、年俸高騰により各オーナーが示し合わせFA選手を締め出したためどことも契約出来ず、浪人寸前のところに関根潤三率いるヤクルトからのオファーがあり、急転直下日本行きが決まったのです。

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現役バリバリのメジャーリーガーの来日は異例中の異例だった

 

黒船襲来

ヤクルトに入団したホーナーの背番号は50。シーズン50発の期待を込めてのものでした。

日本でのデビュー戦は5月5日神宮での対阪神戦。その第3打席、仲田幸司から名刺代わりの来日第1号を放つと、翌6日には池田親興から1試合3本のホームランを放ち、観客の度肝を抜きました。

続く広島戦でも1試合2本のホームランを放ち、来日4試合で11打数7安打、6本塁打という驚異的な記録を残し、メディアは一斉に「黒船襲来」「赤鬼」「ホーナー旋風」と書き立て、シーズン終了までに一体何本のホームランを打つのがファンの興味の的となりました。

(あのバースをして「シーズン100本は打つね。間違いないよ」と言わしめたんだとか。)

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1987年5月6日、1試合3本塁打を放ちメジャーの実力を見せつけた

 

規定打席未達で30本塁打

一躍時の人となったホーナーはシーズン途中からの加入にも関わらず、同年のオールスターにもセ・リーグ三塁手部門のファン投票1位で選出(腰痛のため辞退)。

最終的には怪我のため規定打席には届かなかったものの、93試合で打率.327、31本塁打、73打点を記録。

規定打席不足で30本塁打以上を記録したのは88年ブライアント(近鉄)、89年デストラーデ(西武)、03年ペタジーニ(巨人)、12年バレンティン(ヤクルト)らしか居ません。

なおこの年のホーナーは野球以外にもTVCMへの出演や著書の執筆、ゲームソフトへの登場など、さまざまな面で話題を振りまいた1年となりました。

ファミコンソフト「燃えろ!プロ野球」ではホーナーの能力値が高すぎて、バントしてもホームランになるという謎仕様が話題に。)

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薬師丸ひろ子と共演したサントリー缶ビールのCM

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ナムコファミスタ87」では「ほうなあ」として登場

 

ジャー復帰〜引退

同年オフ、ヤクルトは翌年以降もホーナーと契約すべく、3年総額15億円という当時としては破格の条件を提示(この年ロッテから中日に移籍した落合博満の日本人最高年俸が1億3千万円だった時代)。

ほぼ合意に至っていたものの、最終的にはメジャーでのプレーを優先する形となり、1年総額わずか1億円でセントルイス・カージナルスと契約し、メジャー復帰が決まりました。

カージナルスでプレーした88年は60試合で打率.257、3本塁打、33打点と精彩を欠き、残念ながら同年限りで31歳の若さで現役を引退しました。

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日本では傍若無人の限りを尽くしたホーナーだったが・・・

 

まとめ

日本でプレーしたのは僅か1年。しかしファンに与えた衝撃度、瞬間最大風速は歴代助っ人外国人選手の中でも間違いなく屈指のものでした。

 

余談ですが・・・

最近ではハリセンボンの近藤春菜が「じゃねーよ」の持ちネタのひとつに

ボブ・ホーナーじゃねーよ」として使ってるようです(笑)

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言われてみれば似てる??